大根の法則~落日の光景と日本人の浄土観「破戒の街飯山」

大根の法則~落日の光景と日本人の浄土観「破戒の街飯山」

中学に入ったとき、担任になったのは、ホンダのS600だったかスポーツカーに乗っている田舎には似つかわしくない若い先生で、バイオリンを弾く音楽の教師だったがついでに理科も教えてくれた。

タバコはチェリーを吸っていて、今だったらそんなことはできっこないが、「おいちょっとタバコ買って来てくれないか?」と近くのお店に先生のタバコを買いに「パシリ」をさせられるのが、私はうれしくてしょうがなかった。

だってそんな若くてかっこいい人を見るのははじめてだったから。笑


田舎の中学は学年で70人ちょっとしかいなかったし。


理科の授業で太陽と地球の位置関係をやった時だったか、その先生が光の当たり方と地上の暑さの関係を「大根の輪切り」で説明してくれたことがあった。


同じ太さの大根でも斜めに切ると、直角にきった時に比べて面積が増える。

光が同じ分量当たっても、面積が大きくなるほどたとえば1センチ四方に当たる光の分量は少なくなる、そんな感じで説明してくれたことを、ふと思い出した。



自分が季節を感じるのは、その光の傾き加減だと思う。
斜めから日が当たることが自分の脳裏に刻み込まれた季節感を呼び覚ますのです。









2年前、「椰子の葉陰」をテキストに島崎藤村と飯山に関するセミナーを受講したことがある。


文学はすごいなぁと感じた。


この椰子の葉陰の主人公も実は実在の「藤井宣正」という人物だ。

ウィキペディアに詳しくでていたのでそのままコピーします。

藤井宣正(ふじいせんしょう)

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1859年、三島郡本与板村(現長岡市)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学、慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。
卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。

当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。

1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝(たまえ)と結婚。

瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
ちなみに、この二人の仲を取り持ったのが入江寿美子(後の伊藤博文夫人)である。
また、翌年の東京白蓮社会堂での挙式がわが国初の仏前結婚式とされている。

1897年に教授を解任、埼玉県第一尋常中学校長に就任した。

1900年、本願寺よりヨーロッパにおける政教調査のためロンドン派遣の命を受け、大英博物館やヴィクトリア&アルバート美術館にて仏教美術研究の最新動向に触れた。

1902~1904年に浄土真宗本願寺派の第22世門主大谷光瑞が組織した学術調査隊・大谷探検隊では実質的リーダーを努め、中央アジア・インド・東南アジアへ3度にわたり仏教伝播の軌跡を追う調査を行い、特にシルクロード研究に関する調査成果を残し、貴重な遺物・古文書を日本に持ち帰った。

その中でも一般にもよく知られるインドのエローラ石窟群やアジャンター石窟を、日本人として初めて本格的に調査した。

200日以上に及ぶ行程のレポートが日本へ送られた後に紛失してしまったことで、彼らの調査は正当な評価を受けることができなかったが、隊の様子は宣正が記していた「印度霊穴探見日記」などに垣間見ることができる。

調査を終えた後、もともと体が弱かった彼は劣悪な環境の中で腸を患いながらも、昼夜を惜しんで同地での研究・調査に打ち込んだ。一旦は小康を得たものの 1903年に再度調査の指示があり、ロンドンに渡航する直前、フランスのマルセイユで帰らぬ人となった。享年45.死後本願寺学位最高の勧学に任ぜられた。

1904年、島崎藤村は「明星」にて宣正の生涯をモデルとした「椰子の葉陰」を発表、旅先で書かれた彼の絵葉書や日記をもとに、未知を求めて異郷の地で孤独な死を迎えた青年僧への哀惜の情が藤村の詩情と重なり、主人公への共感をより一層強めている。後に次女鶴枝は高野辰之と結婚している。
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この藤井宣正の妻である井上瑞江(たまえ)の実家はいわゆる破戒で主人公の瀬川丑松が下宿した寺であるところの真宗寺(破戒では蓮華寺)で、大火でそのときの絵葉書などは燃えたけれど経堂にあったため被害から逃れた藤井の日記が今でも残っています。

飯山 真宗寺の経堂↓
「蓮華寺では下宿を兼ねた。・・・」 

大根の法則~落日の光景と日本人の浄土観「破戒の街飯山」




藤村は実際この寺に泊まり、藤井の義父に当たる井上寂英から藤井の話を聞き、また絵葉書なども見て非常に感動したということです。





実際は藤井はフランスのマルセイユで死ぬのですが小説ではセイロンで死を迎えるという話になっています。

この椰子の葉陰の最後にはこうあります。



・・・袈裟をかけ西へむかひて合掌し、かの「一切衆生自非生盲。有目之徒皆見日沒。當起想念。正坐西向諦觀於日。令心堅住。專想不移。見日欲沒状如懸鼓。既見日已。閉目開目皆令明了。是爲日想」とありしを想ひ起こして、釈迦牟尼の雄大なる想像を追懐いたし候。

あたかも落日は窓よりさし入り、我が膝を照らしたりき。その時留学層も吾が傍に合掌してありきが、見れば満身夕陽(せきよう)を浴びて、顔は火の如くに輝きし。

独生独死の思想は胸を衝いて湧き上がりし候。新しき世界はわが前に開けてあるなり。われは斯く考えて、空寂なるが中にも熱き血が湧くが如きを覚え申し候。

窓より眺め入れば、巨大にして放縦なる雲のちぎれ、その間には遠く細きも浮び、日沈むにつれて、斜光と白雨と暗影との相映ろひたるも、言はむかたなきに、その雲高きは黄、次なるは深紅、低きは暗灰、それも瞬く間に移り変わり申し候。

海岸に群り集まれる諸国に蒸気船、帆前船の帆柱より、土人の乗る独木舟のそのふなべり、霊鳥の翅(つばさ)、つぶやくごとくに動揺する深碧の波に至るまで、およそこの港の風光を添ふるものは、すべて熱帯の空気と煙とにつつまれて、夕空の色に輝かぬはなかりき。
・・・・・・・・
ああ、今は思ひのこすことなし。男子と生まれて、偉(おおい)なる所願のために倒るるは、無益(むやく)の業にもあるまじく候。・・・・・・・・・






幸福とは他人からもらったり降って湧くものではなく、やはり「自分が幸せと思うゆえに幸せ」みたいな感じがします。

小説は、文学は、そんな感情をうまく心にダイレクトに感じさせる力があるようです。




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2008年10月14日 Posted byマリィ at 22:53 │Comments(0)破戒の舞台となった街 飯山

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